城跡・古戦場を巡る旅記事一覧

□忍城〜15世紀の中頃、地元の豪族である成田氏が築城。関東の七名城のひとつにも挙げられています。北条氏康や上杉謙信に攻められても落城せず、豊臣秀吉の小田原征伐の際の石田三成率いる大軍による水攻めにも屈せず、小田原城開城以降まで持ちこたえたました。現在ある御三階櫓は昭和52年に再建されたもので、同所にある郷土博物館から入館が可能となっています。武蔵国の現在の行田市にある忍城。戦国時代、この忍城を舞台...

約450年前、戦国時代の日本では各地で武将たちが覇権を争う戦 いが繰り広げられていました。その、“兵どもの夢の跡”を今に残す城 跡・古戦場を巡り、彼らの想いや戦い方に触れる旅に出てみました。堀の中を敵兵が自由に動けないようにする「畝堀」や「障子堀」が残り、攻城戦の難しさが感じ取れます。数時間の山中城と三カ月守った韮山城国道1号線を箱根から三島へと走る途中に山中城跡があります。戦国時代の関東の覇者、...

今から遡ること450年前の1569年10月、相模国の三増峠の麓で、戦死者数4,000人とも言われる武田軍と北条軍との壮絶な戦がありました。地形の高低差を活かした戦国史上最大の山岳戦です。三増合戦場碑?武田家史書「甲陽軍鑑」によると、同戦の戦死者は北条方3,269人、武田方900人と記されている程の大激戦が繰り広げられたそうです。周りにはゴルフ場が点在し、のどかな風景が広がる神奈川県愛甲町三増。ここ...

上杉家代々の越後(新潟県)から、豊臣秀吉の命により、会津(福島県)へ加増移封された上杉景勝。対徳川家康、そして伊達政宗へのけん制の意味もあっての移封ではあったが、結果、上杉家は会津120万石の大大名となりました。そこで従来の会津城が手狭なこともあり、会津治世のために新たに築城を考えられたのが神指城です。神指城跡周辺お堀まで含め面積は約55ヘクタールという大きな城になる予定でしたが、1598年に秀吉...

上杉謙信が落とせなかった城戦国最強の武将といいますと、誰を思い出すでしょうか。「覇王」織田信長でしょうか、はたまた「甲斐の虎」の武田信玄でしょうか。いや、手取川の戦いで織田信長軍を破り、川中島の戦いでは武田信玄軍を翻弄させて「軍神」上杉威謙信を挙げる方も多いかもしれません。大きな戦いでは生涯無敗を誇る上杉謙信をもってしても、10度も攻撃をして一度も落とせなかった城、そして、関東の雄たる北条軍をも4...

戦国時代、各戦国武将が領土拡大のため、いろいろなところで戦が繰り広げられましたが、主力を含み大軍勢同志の野戦は、実はそれほど多くはないのです。事前に調略や謀略を仕掛けて自軍の戦力をいかに減らさずに戦うか、ということが多く用いられたほか、兵力差がある軍勢同志が戦う場合は、だいたい、兵力が少ない軍の方が、守りに強い城にこもり、籠城戦(攻城戦)になることが多かったようです。もちろん、関ヶ原の戦いや長篠の...

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