■川中島の戦い〜武田軍 vs 上杉軍(ホンダCRF1100LアフリカツインDCT)
戦国時代、各戦国武将が領土拡大のため、いろいろなところで戦が繰り広げられましたが、主力を含み大軍勢同志の野戦は、実はそれほど多くはないのです。
事前に調略や謀略を仕掛けて自軍の戦力をいかに減らさずに戦うか、ということが多く用いられたほか、兵力差がある軍勢同志が戦う場合は、だいたい、兵力が少ない軍の方が、守りに強い城にこもり、籠城戦(攻城戦)になることが多かったようです。
もちろん、関ヶ原の戦いや長篠の戦いなど、雌雄を決して大軍同志が戦う大戦もあります。その中で、武田信玄と上杉謙信という、お互いが戦国最強とうたわれた武将が雌雄を決して激突したのが川中島の戦いです。
川中島のある北信濃は、越後(新潟県)の上杉謙信、そして甲斐(山梨県)の武田信玄ともに重要な拠点で、その支配を巡って戦いが行われました。
川中島での両軍の戦いは約11年間で5回ほどあったようですが、小競り合いが多かった中、第4次合戦となりました1561年の川中島(八幡原)の戦いでは、両軍の主力同志がぶつかり合うという壮絶な戦いになりました。
8月16日に、上杉軍1万3千が千曲川の南にある妻女山に着陣し、武田側の海津城と相対します。
8月24日、上杉謙信が出陣したことを聞いた武田信玄が、千曲川の北側の茶臼山に布陣しました。そして、29日に信玄は海津城に入城しました。
その後、しばらく膠着状態が続き、信玄の家臣の山本勘助が提案した上杉軍を挟み撃ちにする啄木鳥(きつつき)戦法が採用され、9月9日、武田軍の別動隊1万2千が妻女山に向かい、そして、信玄本隊8千は八幡原に陣取りました。
妻女山の麓にあります、上杉謙信槍尻の泉。
上杉謙信が鎧を掛けたと言われる、鎧掛けの松。
しかし、別動隊の動きを察知した上杉軍は、夜中のうちに妻女山を下り、八幡原に布陣しました。
9月10日、両軍本隊が八幡原で激突しました。
挟み撃ちが失敗で動揺している武田軍に上杉郡が襲い掛かり、武田軍側の山本勘助や信玄の弟の武田信繁といった武将が討死にしていきました。
千曲川沿いにある山本勘助のお墓。
武田信繁のお墓がある典厩寺。
その後、昼前頃に武田軍の別動隊が戦場に戻り、形成は逆転。上杉軍は越後へと引き上げました。
戦死者は、武田軍4千、上杉郡3千と伝わっていて、「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされていますが、結果、引き分けのような感じで戦の幕を閉じました。
さて、まず、長野市の郊外に、川中島古戦場があります。無料駐車場があり、
そこからすぐに八幡社の鳥居があり、左に合戦図があります。
そして、戦死した者たちが葬られたといわれます首塚があり、
そして、かの有名な、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの像があります。
実際に、そのような一騎打ちがあったのかは分かりませんが、戦国時代の浪漫としてはありのような気がします。
ちなみに、その像の横には、上杉謙信が武田信玄を三度斬りつけて、武田信玄の軍配団扇に七つの傷が残ったいたことから伝わった、三太刀七太刀の碑、なるものまであり、
なんと、その近くには、信玄の危機に駆け付けた家臣の原虎胤が、槍で上杉謙信を突けず取り逃してしまったことから、その無念で近くの石を突いたという執念の石までありました。
後から作られたものなのか、史実なのかは分かりませんが、なんか、まあ、凄いです…
八幡社
また、近くには、山本勘助が討たれたと場所と言われる勘助宮跡や、
勘助宮跡
その山本勘助の斬られた首と、担いできた胴とを家来たちが合わせた場所と言われる胴合橋などがあり、川中島の戦いでは山本勘助のネームバリューが大きいなぁと感じました。
胴合橋〜少し分かりづらい場所ですが、お店のすぐ脇にあります。
その他に史跡として、前出しました海津城(松代城)跡や、妻女山などがあります。
海津城跡
妻女山の展望台
妻女山から川中島を望む
ちなみに、勘助宮跡の近くには、「合戦場」という地名があり、合戦場公園なるものもありました。
いや、特に川中島の戦いと関連は無いのかもしれませんが…